日系アメリカ人のアーティスト、ミネ・オオクボは、その有望なキャリアの始まりの時期に二度も戦争に巻き込まれながらも、粘り強く多くの作品を生み出しました。
カリフォルニア州リバーサイド出身のオオクボは、第二次世界大戦中にほかの数千人の日系人と共に収容されていた、ベイエリアの仮の収容所とユタ州の強制収容所での生活を198枚の素描で綴った『市民13660号』で高く評価されています。これはアメリカの強制収容所での経験を元収容者が描いた初めての書籍でした。
当館の特別展「ミネ・オオクボのマスターピース:市民13660号のアート」でご紹介するオオクボの表現力豊かな作品には、窮屈なバラックやどこに行っても遭遇する長蛇の列、厳しい気候など、過酷な収容所の様子が記録されています。また、オオクボの作品からは収容者をさいなんでいた希望のなさや憤り、退屈さも伝わってきます。
オオクボは単なる収容の観察者ではありません。彼女は政府が家族ごとに割り当てた番号の「市民13660号」であり、彼女の絵画は不安定な状況に置かれたアメリカの市民権を描いています。
オオクボは日本から移住した両親の下に1912年に生まれました。父は学者であり、母は書道家、画家としての教育を受けた人でした。父は庭師としての職を得ましたが、母は6人の子供を育てるのに忙しく、芸術の道に進むことはありませんでした。このことが彼女にアーティストとしての決意を固めさせ、「結婚はしない」、彼女自身の言葉で言えば「他人の靴下は洗わない」と誓ったのです。
オオクボは、カリフォルニア大学バークレー校で美術の学士号と修士号を取得しました。1938年には、バーサ・ヘニッケ・タウシグ芸術留学奨学金を受賞し、パリでキュビズムのアーティスト、フェルナン・レジェに師事しました。しかし、ドイツにおける戦争によってヨーロッパの旅は中断され、また母が病気であることを知って、オオクボはアメリカに帰国するのです。
オオクボは、サンフランシスコでは公共事業促進局の連邦芸術プロジェクトの一環で壁画を描き、著名なメキシコ人アーティストのディエゴ・リベラと共に仕事をしたこともあります。
1941年の真珠湾攻撃の後、大統領令9066号を受けて西海岸に暮らす日系人はアメリカの僻地に作られた強制収容所へと送られました。オオクボの大家族はバラバラになってしまいました。
彼女と弟はまずカリフォルニア州サンブルーノの競馬場を改装したタンフォラン拘置所に送られ、馬の糞尿の臭いがする馬小屋で、干し草を詰めた袋の上で寝起きしました。オオクボのスケッチは、歩道に荷物を積み上げたままバークレーを出発させられた時から、タンフォランでの屈辱的な生活まで全てを記録しています。
1942年5月、オオクボは弟と共にユタ州のトパーズ強制収容所に移送されました。オオクボはその後も何千枚もにわたって日常風景を描き続け、美術の授業を受け持ち、文芸アート誌「トレック」の創刊にも携わりました。
オオクボにとって、アーティストである彼女自身と作品に描かれた人々との間に差異はありません。大半の絵画において、オオクボは十字絣のシャツを着て、ほかの収容者たちと共にいます。彼女たちはワクチンやトイレのために並び、埃っぽい風から身を守りながら、孤独と不確かさ、不安と絶望をなんとか耐えています。
オオクボの作品が収容所の外でも評価を受けるようになった後、雑誌「フォーチュン」は日本に関する特集号のアシスタントとして彼女を雇いました。1944年1月、オオクボはトパーズを離れ、フォーチュン誌の協力を得てニューヨークのグリニッジ・ビレッジに移りました。
その後、オオクボの作品は「タイム」「ライフ」「ニューヨーク・タイムズ」などに掲載され、名だたる美術館でも展示が行われ、さまざまな著名人からも高く評価されました。また1981年には「民間人戦時転住収容に関する委員会」を前に証言を行いました。そして1984年には、オオクボの作品の中で最もよく知られたものである『市民13660号』がアメリカン・ブック・アワードを受賞しました。
オオクボは2001年に88歳で逝去するまで作品を描き続けました。
ミネ・オオクボ・コレクション
アーティスト、ミネ・オオクボ(1912〜2001)による197点の作品をご覧いただけます。これらは1946年に出版された、収容所について初めて経験者の視点から描いた名著『市民13660号』の元となった作品です。